公開日:2024年8月19日 更新日:2024年8月19日
まえがき
私が生まれ育った新潟県三条市栄地区の山に、かつて油田があった。実家の前の県道を山に向かって進んだ先に、今もわずかにその痕跡が残る。その名も「大面(おおも)油田」。大正の始めから掘削が始まり、昭和5年頃に黄金期を迎え、戦争を挟んで戦後の昭和35年頃まで産油が続いた。小さい頃から親戚が集まり昔話に花が咲くと、必ず「帝石」や「油田」といったワードが飛び交うのを幾度となく経験してきた私にとって、大面油田はいつしか放っておけない存在となった。果たしてあの場所に何があったのか、当時の人々がどんな風に働き暮らしていたのか。大人になるにつれて、親が老いていくにつれて、その記録を簡単にでもまとめておかねば、という気持ちが大きくなってきた。折しも昨年、かつて油田関連の敷地の一部だったと思われる農耕地が工事され、コンクリートの貯水池に変わった。時が経てば人の記憶も薄れ、環境も変わる。かつて確かにそこに存在した大面油田という小さな油田が、小さな集落の小さな歴史の闇に消えつつあるのを感じ、ようやく重たい腰を上げたところである。
2024年夏 金井和恵(旧姓:中野)
–[ 目 次 ]–
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大面油田について – 彩とりどり.pdf(1.5MB)
新潟と油田
古い記録
今回、大面油田をきっかけに改めて新潟の油田について調べたところ、その記録は思ったよりずっと古いものだった。日本書紀の天智天皇紀(西暦670年頃)に、「越の国、燃ゆる土燃ゆる水を献ず」と記述されている(原文:又越國獻燃土與燃水)。この時の産油地は柏崎市西山町とも、胎内市黒川ともいわれ、諸説あるようだが、いかんせん古い記録のため不明である。
土地柄、石油や天然ガスが出やすいのか、関連する古い資料や言い伝えが残っており、江戸時代後期(1837年)に鈴木牧之が書いた当時のベストセラー作『北越雪譜』の中では、越後の七不思議「雪中の火」として三条市如法寺と魚沼五日町の天然ガスの事が書かれている。
近代における新潟の石油
明治維新以降、西洋にならい急速な近代化を進めた日本。暮らしの灯りが行燈・ろうそくから石油ランプになり、車や船の燃料(ガソリン)や機械のディーゼルエンジン、道路のアスファルトなど、しだいに国内での石油の需要が増加してゆく。
石油の採掘が始まった明治初期~中期までは、手掘りの油井(ゆせい)しかなく(※上越市で江戸時代の終わりから明治期にかけて出油した「頸城油田」はこの手掘り法でした)、危険かつ産油量も少なかったが、明治24年(1891年)に出雲崎の尼瀬油田で米国式の綱掘(つなぼり)法という機械採油に成功して以来、県内各地で石油の掘削が本格化した。
※手掘りの油井……坑夫が井戸の中に入り、ツルハシなどで掘り進める。坑が深くなると、地上でたたらを踏んで坑底に新鮮な空気を送り込む。
ちなみに、日本で石油の取れる地域は新潟・山形・秋田・北海道などに限られています。なお、現在も新潟県は石油・天然ガスの国内生産量は1位である。
大面油田の発見
ここからは大面油田について記載のある『大面村誌』『栄村誌』で調べた内容を元に、インターネットなどの情報と合わせながらまとめる形で大面油田について紹介します。各村誌は、三条市役所の方に許可を頂いたので、文字起こしをして別ページに掲載しました。興味のある方は『大面村誌』『栄村誌』のページもご覧ください。
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江戸時代の後期、文政年間(1818–1830年)に北潟の島影新右衛門が畑に滲み出る油を発見、これを縄に浸して採り灯火用にしたと伝えられている。これに先立つ寛永年間(1624–1645年)の検地帳には「油田(あぶらだ)」「油免(あぶらめん)」など油に関係する地名があり、古くから地面に油が滲み出ていたといわれる。油免(あぶらめん)は地面から油が出て田畑に使えないため、地税を免除されたという意味らしい。
今も北潟の山を歩くと、水たまりに油が浮いている様子が見られる。
大面油田の掘削活動のはじまり
注)井戸の井は「せい」と読みます。油井(ゆせい)・第○号井(ごうせい)。分かりやすい象形文字ですね。 |
明治6年、現長岡市浦瀬で手掘り掘削による油田開発事業が始まる。明治10年、北潟の大沢鐵蔵・島影九十郎が後の大面油田となる場所にて手掘り井を掘ったが、油気だけで出水のため廃坑。
周囲の状況としては、長岡市浦瀬では明治17年(1884)に北越石油会社が創立、明治21年(1888)には現刈羽村に日本石油株式会社(現ENEOS)が設立され、同24年(1891)には出雲崎の尼瀬油田で米国式の綱掘(つなぼり)法という機械採油に成功。以来、県内ではにわかに石油開発事業が活発になった。大面油田はこれらの流れを汲み活動を開始した。
明治24年、初期の大面油田は複数の組合や会社が小規模操業をしていた。
当初の掘削はまだ「手掘り法」で、坑夫が穴に入りツルハシで掘り、掘った土を滑車で坑外に出すという原始的な方法だった。これで20〜30間(1間=約1.82m)、時には100間もの深さを掘った。
世の掘削技術が進むと、竹製の機構を使って掘り進める「上総式」が登場し、その後、機械掘りの綱掘(つなぼり)方式が大面油田でも普及。これらの方法で掘削が試みられるも、出水等により失敗が続き、従業している坑夫の中には借金のため夜逃げする者も出たというほど軌道に乗らなかったという。
明治29年には複数の組合があったことが大面村誌に記録されている。
同じ頃、新潟県(当時は越後)全域で油田開発が隆盛となり、明治末期から大正初期には特に新津油田を中心に最高潮に達した。明治33年(1900)アメリカの石油会社スタンダード・オイルは日本にて子会社のインターナショナル石油株式会社を設立し、また、他の石油会社も規模を大きくして新潟県各地で組織的に産油・製油が行われた。
大面油田では、明治40年(1907)、日本石油株式会社がインターナショナル石油株式会社を買収して大面油田の鉱区を手に入れてから、近代技術を取り入れた鑿井(さくせい)が始まる。大面油田は、それまでの弱小企業の集合体による油田開発から、日石による大規模な開発へと舵を切ることになった。
日本石油株式会社の時代
大面油田に日本石油が進出してからは、県内の他の坑区で働いていたベテラン技術者が続々と来村した。家族連れの社宅、独身寮などが幾棟も建てられ、通称 日石部落・石油部落と呼ばれた(部落というのは集落という意味)。
掘削技術も向上し、大正元年(1912)には西山油田にて日本初のロータリー式(ロータリーテーブルを回し、ドリルパイプの先端に取り付けたピットを回転させて掘り進める)油井掘削に成功した。
※ロータリー式の掘削技術は進歩しながらも現在まで利用されている。
ロ式第四号井の大噴油
大正3年(1914)2月、大面油田でもロータリー式掘削(ロ式)を開始。第一号井(せい)は油を見たのみで終わり、第二号井は深度865mで噴油を得て成功(大正5年5月)。第三号井は失敗。大正6年3月、続く第四号井は深度890mで二号井を上回る大噴油をみて、大面油田の名を一躍高め、大面油田史に金字塔を打ち立て、ここに大面油田の基礎が確立した。
※この「ロ式第四号井(ろしきだいよんごうせい)」をよく覚えておいてください。
日産3,000石(1石=180リットル・ドラム缶1本=200L)の産油があった様子は『大面村誌』および『栄村誌』によく記録されているのでそのまま引用します。
昭和41年発行『大面村誌』
大正六年三月、日産3,000石、周囲の山山に油がかかる物凄さ、壮観。万歳の声は北潟の山山にこだました。タンクの建設が間に合わず、谷間に堤を築いて貯えたが、忽ち満杯ついに北潟川を流れるにまかせ、北潟、大面から帯織方面にまで川や田が一面に石油で覆われ、学校の子供たちが桶に汲みあげて逆に会社へ売りにいったという喜劇も演ぜられ、会社は被害地主へ補償をしなければならぬという嬉しい悲鳴もあった。この四号井は爾来衰えつつも昭和十年頃迄採油を続けて最高の記録をだしたのである。
昭和57年発行『栄村誌』
周囲の山々に油が飛沫をあげてふりかかる物凄さ―大壮観、万歳の声は北潟鉱場にこだました。貯蔵タンクの建設が間に合わず谷間をふさいで溜池としたが忽ち満杯となって北潟川を流下して田が油で履われ、学校の児童たちが桶に汲みあげて逆に会社へ売りにいったという逸話もある。東京をはじめ各地から新聞社・文士が来村、大々的に報道され、記録映画(当時は活動写真といった)に撮影され村で公開された。口絵写真は当時の記念である。この四号井は以来衰えつつも昭和十年頃まで約二十年採油が続けられて最高の記録を出した。
大面油田は当初、地形の良い北潟付近から開発が始まり、次第に北潟の奥地、吉野屋方面に伸びていった。大面村誌に付いている地図に油井の記号があったのでピンクの丸で印をつけてみました。
標高はわずか200m程だが谷の刻み込みが急で地形としては劣悪だった。資料によると尾根にまで土地を造成し掘削していた記録があり、鉄管などを1本ずつ担いで掘削現場に登るなど、作業も苦労を伴った様子が伺える。坑井は1,000m以上の深さをもち、採油の施設も軽量ではないため、作業はこの地勢との戦いだった。
当時の産油地区は北潟・大面・矢田・吉野屋を経て、現三条市の長嶺・吉田・如法寺に至る南北6km、幅400mにわたり、鉱区は小さかったが前述のロ式第四号井のように当時の日本では屈指の巨井を有していた。
ガスの噴出日本一
本成寺ロ式一号井が昭和4年(1929)4月、深度1496.7mでガスの大噴出があった。日産3,400万立方フィート・圧力1,400ポンドという驚異的なものであった。他の坑井からも続いて噴出し、新潟・長岡・三条・加茂・見附の都市ガス会社に供給、鉱区から6インチ・4インチパイプを使用、大面・新潟間は53.6kmのパイプ延長だった。
オイルラッシュ
昭和5年前後は大面油田史上最高の黄金時代だった。昭和11年時点で林立する櫓の数は108、約300人の従業員が昼夜交代で作業を続けた。これも『大面村誌』に記載があるので引用する。
・燃える水とは昔のことよ お国自慢の油壺
・燃える水なら大面においで他所に見られぬ井がたつ
・高い櫓に夜が夜が明ける 行こぜ北潟油見に山で働く人人の休養で矢田・吉野屋の湯小屋が繁昌。茶屋料亭が栄える。下請業者が栄える。当時大面村財政は歳入約四万円であったが、鉱山税がその一割約4,000円村の収入となった。油田の衰亡を考える時、この税収を貯えておかなければならぬという自重論が村議会内で説かれたのも昔の語り草である。
技術員・鉱夫・事務職員などが会社の発展に応じて続々と入村、北潟の谷あいは人々で活気づいていた。
鉱場内3ヶ所に24フィート(1フィート=約30cm)=72mの「ナショナルポンピング(外部リンク)」が設置され、周辺の坑井から索引給油するギーギーという音が響いた。こうした原油・揮発油は鉱場から帯織駅貯油槽まで敷設パイプで送り、油槽車で柏崎・沼垂の製油所に送られた。帯織から鉱場へ運び込まれる資材は駅から特設した軽便軌道で運んだ(帯織駅から田んぼを突っ切り大面に出て鹿島谷に入り北潟鉱場に通じる)。
この時代を県内全域の各油田から見ると、新津油田が衰退期に入り、代わって刈羽油田を中心とする西山油帯の最盛期で1,500本の櫓が立ち、日石は柏崎に製油所を設け、理化学研究所(理研)は柏崎に工場をつくるなど黄金時代だった。
油田の衰退
大面油田は、原油が昭和5年の年産17,096キロリットル、ガスは昭和11年の1,843万立方メートルをピークとしたが、第二次世界大戦の波が次第に近づいてくるのに伴い衰退期に入った。
開戦直前の昭和16年(1941)9月、帝国石油株式会社法に基づく半官半民の石油上流専業会社として、帝国石油㈱が設立された。同年12月、日本軍がハワイ真珠湾を攻撃、太平洋戦争が勃発した。
当時の日本は敵対するアメリカから石油の8割を輸入していたが、欧米諸国が日本への石油輸出禁止に踏み切り、石油資源の確保が喫緊の課題となっていた。日本石油は、昭和17年(1942)4月、政府の勧奨に従い、鉱業部門を帝国石油に譲渡。大面油田は帝国石油のもと稼働を続けたが、実際には南方ボルネオ方面での油田開発に物資や労働力が移され、鉱場はほとんど機能しなくなった。
(時代背景)
日本による東南アジア軍事占領は「大東亜共栄圏」建設の「大義」を前面に出して正当化を試みるものの、実体は日本の戦争遂行のための重要資源獲得という日本の国益追求から出たもので、またそれは戦場である南方軍隷下の各部隊に周知徹底されていた。
(日本の油田からの物資の移転について)
採油部門は国策会社である帝国石油(’41年設立)が一手に引き受けた。占領直後、軍はこの帝国石油をはじめとする各社から総勢4,000名以上の採掘・電気・機械その他部門の技術者要員と機材をインドネシアに上陸させている。すでに戦争開始の10ヶ月前(昭和16年2月)から軍は油田関係者の一部に対して南方石油占領の準備を伝えており、4月には台湾で、6月には日本内地で油田機材や掘削用資材の取り外しが行われていた。積み出し準備を終えた掘削用資材は日本の各石油会社の油田補助井の90%に達した。さらに徴用された民間石油人の数は日本国内の石油技術者総数の7割に相当した。[日本石油百年史]
戦後の操業と閉山
終戦後の大面油田はすでに衰退期であり、掘削業務は行われていなかったが、石油を穴から汲み出す採油業務は続けられていた。別ページで記載するが、私の祖父はじめ親戚筋の皆さんは、この時代に帝石に勤務していた。祖父は徴兵検査後、昭和17年に26才でスマトラに行っていた写真が残っており、終戦後に地元に戻って帝石で働いていました(もしかすると戦争に行く前も大面油田で働いでいたのかも…)。
大面村誌によると、産油は次第に減少し、昭和28年(1953)6月にはついに不採算鉱場となる。
その後、昭和31年(1956)に帝国石油が同社役員だった赤間栄吉氏に大面油田を売却。赤間氏率いる大面石油が採油事業を継続したが、事業は進展しないまま昭和38年(1963)閉山となった。※閉山した年が確実に記載されている資料がなく、昭和38年頃には違いないと思いますが、実際のところはどうだったのか分かりませんでした。ご存じの方、いらっしゃったら教えてください。
あとがき
新潟県の油田開発は、地域の経済発展に大きく寄与しており、石油産業は一時期、多くの雇用を生み出し、関連するインフラ整備も進んだようです。
また、戦前には当時の世界情勢の中にあって、日本が総力戦体制を整えるにあたり石油の確保が最重要課題となるなど、いかに人類が資源を欲していたのかを痛感しました。
100年前に実家の奥の山で隆盛を誇っていた大面油田。栄村誌には、戦後貧しい田舎の人が、厳しい自然との戦いの中で必死に働きながらも、少しづつ豊かになっていった語りもあり、当時の人の苦労が偲ばれるようでした。
私たちが暮らしているこの豊かな社会は、先人たちの苦労の上に出来たものなのだと、改めて感じました。
現在は油井のやぐらももちろん撤去されて、なにごともなかったかのような山々に鳥の声が響いています。ただ一つ、油田への入り口にあたる道路脇に建てられた、当時の功労者・山口角太郎さんの碑が往時の記憶を今に伝えています。
大面油田に関する遺構はありませんが、山道を歩いていると地形や植物の生え方などから確実に土地の記憶があるのを感じます。地域の歴史や文化は何かしらの形で先細りながらも未来につながってゆくと信じて。
そして何より、知らなかったことが分かってくるというのは本当に楽しいものです。
ご覧いただきましてありがとうございました!
大面油田の現在の様子は「私と大面油田」の中に書きましたので、よろしければそちらもご覧ください。