私と大面油田

公開日:2024年8月19日
更新日:2024年10月22日

大面油田についてのページで、油田の歴史について書き記しましたが、このページでは「私と大面油田」と題して、自分の身近にある大面油田を記しておきます。

–[  目 次  ]–

  1. 大正9年の写真
  2. 祖父の写真でたどる大面油田
  3. 現在の大面油田跡地
  4. 三條新聞の掲載紙面

▼印刷して読みたい方のためにPDFファイルを置いておきます。
私と大面油田 – 彩とりどり.pdf(3.2MB)

大正9年の写真

父の見舞いに実家に行ったある日、部屋にこんなものが置いてあった。

古い油田の写真である。

写真と裏を見てビックリ。「これどうしたの??」父に尋ねても「分からない」。自分でどこかから出したのか、誰かが持ってきてここにあるのか、衰えた父には本当に分からないのだろう。

写真の表と裏は以下の通りである(クリックで拡大)。

【表面】汲み出した原油が溝を流れていく様子が写っている。

【裏面】写真の説明が書かれている。内容は「日本石油株式会社 大面鉱場第十号井 噴油採収之光景 地主 中野孫七(大正9年7月17日撮影)」

地主の中野孫七とは、私の高祖父(祖父の祖父)であり、実家の屋号である。うちは「孫七」が屋号なので、子供の頃から「先祖が孫七」という認識はあったが、まさかここで名前が出てくるとは夢にも思わず、しかも第10号井の地主とある・・・笑っちゃうね。

ちなみに我が家は現在の大面油田跡地で紹介する第4号井の少し奥に、猫の額ほどの土地があるので、おそらくそこに第10号井があったのでは?と予想する。大正6年に大噴油を見たロ式第4号井、その3年後に撮影されたこの第10号井、年代も一致する。

そうかぁ、我が家の土地に、油井があったのかぁ〜(しみじみ)。

祖父の写真でたどる大面油田

戦後、帝石で働いていた祖父の古いアルバムから大面油田の写真を見つけました。

祖父は大正5年(1916年)生まれ。徴兵検査記念の写真と、昭和17年(1942年)に26才でスマトラで撮った写真が残っていたので、戦争で南方に行っていたのが分かりました。祖父は私が20才の時に亡くなりましたが、生きているときは戦争の話はしませんでした。

終戦後に帰還してから、辞めるまでの10年くらいの間、当時は帝国石油だった大面油田で働いていたようです。

もしかすると戦争に行く前も大面油田で働いていたのかも知れませんし、スマトラは南方での油田開発の地だったので、その関係で戦地に行ったのかも知れませんが、親も生まれる前なので知っている人がいませんでした。

マメな性格の祖父だったので、写真はアルバムにタイトル付きで貼られているのですが、撮影年が記載されている写真は少なく、いつ撮られたのかは正確に分からないものが多かったです。

1950年代には、少し裕福な家庭やアマチュア写真家の間でもカメラが普及し始めたようですが、うちは貧乏だったので残っている写真は誰かが撮ってくれたものだと思います。

油田の写真(撮影年不明)

 

鉱場の門と思われる写真。名前がまだ「日本石油株式会社」ですね。写っている女の子は私の祖母に似ていますが、どなたかは分かりません。村誌に、帯織駅から資材などを軽便鉄道で運んだとありましたが、写真に写るレールはそれかも知れませんね。

こんな門があったらしい

 

一番多く残っていたのが事務所前で撮られた写真でした。下の2枚の写真は、最初に見た時は似てるけど違う場所かと思いましたが、よく見ると、同じ建物のようです。(クリックで拡大)

事務所前での写真

右側の写真の看板には「有限会社 大面石油事業所(または場)」「帝国石油株式会社 柏崎鉱業所」人物で隠れていますが、おそらくその後に「大面鉱場」と続きます。

そして、左側の看板には「北越石油株式会社 大面事業場」(他の写真で文字確認)とあります。

大面油田は、不採算鉱場になった後、帝石から民間に譲渡(売却?)されているので、右が譲渡前、左が譲渡後の写真なのかも知れません。

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下の写真は日付がありました。昭和31年3月2日。帝石が大面油田を譲渡したのが昭和31年と言われているので、そのタイミングで撮影された写真かも知れません。次の、松田さんと写っている写真と服装やボールペンの角度が同じなので、同じ日に撮られた可能性が高いです。この次の写真も同様です。

ちなみに、3月の初めでまだ奥の屋根に雪が30cmくらい積もっているのが分かります。当時は今よりもはるかに雪が多かったのでしょうね。しかも油田は 山 で す !冬なんてどうしていたのかと思うようですよね。

事務所前にて

下の写真は、服装などから春 or 秋でしょうかね…。

事務所前にて

どうやら祖父は帝石の事務所で働いていたようです。帝石を辞めた後は長岡市の土建屋で金庫番をしていたそうなので、経理か何かやっていたのでしょうか。

帝石時代の祖父

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昭和31年1月30日付の写真もありました。「資材調査」と記載があります。資材調査は毎月棚卸しみたいな感じでやっていたのかも知れませんが、帝石が民間に譲渡される直前の日付なので、その辺りの引き継ぎを含めた実地調査だったのかも知れません。

雪の油田・資材調査(S31.1.30)

背景に油井が見えますね。開けた場所なので「ロ式第四号井」のあった場所もしくは、もっと手前の平地のように思います。

雪の油田・資材調査(S31.1.30)

 

祖父が大面油田で働いていたのは、前述の通り、戦争から帰還後の昭和20年代から昭和32年頃までだと思われます。写真の通り、ちょうど会社が変わるタイミングで在籍していた可能性が高いです。

これは実家の語り草なのですが、「じーちゃんは労働組合の役をやっていたけど、会社が人員整理をすると言った時に会社とケンカして、辞めさすならまず俺が辞める」と言って会社を辞めたそうです。

よって祖父は大面油田の閉山までは働いていなかったので、これも正確な閉山年が分からない理由の一つです。

他にも親戚筋でいうと、祖父の弟・祖母の兄・祖母の妹の夫が大面油田で働いていたようです。この皆さんは帝石勤務時にそれぞれ柏崎・秋田・東京に転勤になり北潟を離れていきました。よって、それらの人物を親に持つ叔父さんたちが法事などで集まると、昔話に帝石というワードが出てくるのです。

ちなみに祖母の父も油田で働いており、戦時中は軍属で南方の油田開発に就き、終戦の年の4月、帰国の途についた船が魚雷の攻撃を受けて48才で亡くなっています。阿波丸事件、ご存じですか?

■毎日新聞 2022/8/15の記事「「石油の一滴は血の一滴」 採掘任務の技術者が語る戦争」より

太平洋戦争末期には日本国内の油田再開発のため、帰還命令を受けた技術者もいた。そうした中、技術者や戦病者らを乗せてシンガポールを出航した緑十字船「阿波丸」が魚雷で台湾沖に沈没。帝国石油の社員も450人が犠牲になった。

これ、子供の頃の夏休みの自由研究でやっていたら、叔父さんたちの話も面白く聞けていたのに・・と、今となっては後悔しきりです。

現在の大面油田跡地

さて、かつてそんな油田があった我が集落の山ですが、今はもう遺構も何もなく、ところどころに油井や関連施設があったんだろうなぁ〜という広い場所が残る程度です。

【注意】 大面油田に限らずですが、油井(ゆせい)の跡はほとんどが山中にあり、完全に埋め戻されていない場合もあります。以下にかつての地図を掲載しますが、絶対に危険な場所には立ち入らないでください。当記事を参考に油井跡等へ行きいかなる損害を受けた場合でも、筆者は責任を負いません。

以下の地図は国立国会図書館のデジタルコレクションにある大面油田の地質及び地形図より得た情報を、私がパソコンで清書したものです。大正7年時点と、時代は古いですが、道や地形は今も当時のままです。(クリックで拡大・ロ式第四号井は赤字にて記載)

ちなみに元画像はこちら↓↓

ロ式第四号井の跡地

今も一番変わらずに分かりやすいのは、大正6年に大噴油を見たロ式第四号井のあった場所です。当時の有名な写真は↓↓でおなじみですが、

かつての地図&写真と地形を照らし合わせると、こんな感じで油井の櫓が立っていたと想像できます。

「ロ式第四号井」があった場所の現在(2024.8.1撮影)

ここは数年前に私が外来鳥のガビチョウを見て、新潟県野鳥愛護会の会報に載せてもらった場所です笑。

普段はノジコやホオジロがよく鳴いています。

 

↓ ↓ の写真は第二号井の場所。道路沿いにあったので、分かりやすく拓けていますね。行く道の手前の方では夏の熱気に混じって、油の匂いが強くしました。

第2号井の跡地(2024.8.23撮影)

 

↓ ↓ の写真は第七号井の近く。ここも拓けています。

木の生えていない広場(2024.8.1撮影)

 

日本石油の事務所は川を渡った先にあったようですので、帝国石油時代にも場所が変わっていなければ、この橋の奥に事務所があったはずですが、今はもうヤブと化しています。夏に行くのはちょっと厳しい。

この奥にかつての事務所があったと思われる(2024.8.14撮影)

 

そして山口角太郎翁の記念碑。これだけは当時からずっとある。

山口角太郎の碑(2024.8.1撮影)

 

ちなみに我が家(実家)の前にある電柱には今も「日石線」と書かれており、かつて油田のあった名残が感じられます。

実家前の電柱には今も「日石」の名が残る

この油田の自由研究は、いつも野鳥観察のオフシーズンである夏にやっているので、それ以外の季節の写真がなくてすみません。

真夏は草がボーボーに生えているので、場所の感じが少し掴みにくいところもあります。今度は春先など自然が落ち着いている頃に撮影してきたいと思います。

三條新聞の掲載紙面

地元紙・三條新聞で2011年の新年号にて「大面油田」の特集が組まれました。

当時を知る方々が掲載されていて、興味深いお話も載っています。三條新聞社さんにネット掲載の許可をいただきましたので、ご興味のある方はどうぞ拡大してご覧ください。

三條新聞 2011年新春号の特集記事(1)
三條新聞 2011年新春号の特集記事(2)
三條新聞 2011年新春号の特集記事(3)
三條新聞 2011年新春号の特集記事(4)
三條新聞 2011年新春号の特集記事(5)

三條新聞さん、掲載許可をありがとうございました!

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ということで、祖父の写真と、現在の油田跡地の写真から振り返りをしてみました。ここはまた新資料や追加情報がありましたら随時更新していきます。

もう夏が終わるので、油田関係のページは一度公開して、また皆さんから寄せられた情報などがありましたら追加していきたいと思いますので、ご協力をお願いいたします。

各ページご覧いただきましてありがとうございました。普段は野鳥観察をメインにブログを書いていますが、夏にはまた油田のことを書けたら、と思います。

油田関係のページは、こちらにもリンクをまとめておきます。

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