栄村誌

昭和57年2月25日発行 『栄村誌(下巻)』より大面油田のページを紹介します。元の資料は三条市栄庁舎内にある三条市立図書館栄分室にあります。

※栄町は市町村合併により平成17年(2005)5月1日に三条市となったため、三条市の生涯学習課に許可を得て掲載しています。

表記について・・・油井(ゆせい)、火井(かせい)と読みます。単位は米=メートル、竏=キロリットル、呎=フィート、吋=インチです。原文はすべて漢数字表記ですが、西暦や油量などの分かりにくそうな箇所はこちらで英数字表記としました。文字起こしをしているので誤字等確認しましたが、誤りがありましたらすみません。

栄村誌の口絵写真(ロ式第4号井)
栄村誌 大面油田の記載ページ

第三章 第一節 大面油田の沿革

大面油田

東山丘陵―越後山脈の前山をなし、新津の背後から魚沼に至り、第三紀層が発達して、新津油田・大面油田・東山油田を含み、信濃川を距てて西山油帯に対応している。

(第1図)

越後の国の油の歴史は古い。弘法大師の伝説「燃ゆる水」は別として、日本書記の「天智天皇ノ七年、越ノ国カラ燃ユル土・燃ユル水ヲ献ズ」とあり以来「臭水(くそうず)」の名で利用していた。鎌倉時代、正安二年(1300年)蒲原郡黒川村では運上金を納めて採油したといい、下って、慶長十八年(1613)新発田藩士真柄仁兵衛が新津で石油を発見し、灯油に精製して販売したのが世界のはじめといわれている。

大面油田は文政年間(1822前後)北潟の人島影新右ヱ門が諏訪畑を開墾した時、原油が滲みでているのを発見し、縄にひたして灯火用にしたと伝えられているが、発見ははるかに古く、寛永五年(1628―約200年遡る)の「北方村検地帳」には油田・油免など油に関係の地名が見えている。橘南谿(たちばな なんけい)の東遊記に紹介されている如法寺村(現三条市)の火の井は正保二年(1645)というから北潟の発見より十数年後である。いずれにしても大面丘陵一帯の村々は既に江戸時代初期から石油に関係していたのである。(第1図参照)

油田の沿革

このように文政年間の島影発見の大面油田がどのように発展していったか。文献によると次のようである。

  1. 文政年間島影新右ェ門の採取推定は一日三、四升の採油量と推定される
  2. 安政年間
    蒲原郡一之木戸村島田其が北潟村広道場の北東崖上に手掘井を掘削し、深き二十間に達したが油気のみで出油はなかった。
  3. 明治十年、北潟の人 大沢鉄(轍)蔵、島影九十郎(旧北潟村古料庄屋)が字諏訪畑で手掘井を掘ったが深さ二十八間でも油気だけで出水のため廃抗にする。
    因みに越後では、明治六年、同じ東山丘陵の浦瀬山(古志郡山本村―現長岡市)中心に長岡の石坂周造等が手掘り方法で事業を始めたのと前後している。やがて明治十七年同地に北越石油会社を創設(資本金三万円)、同二十一年日本石油株式会社が設立され、二十三年には出雲崎尼瀬油田に米国式の綱掘法という機械採油に成功(第一号井)して以来俄に石油事業は活発になった。
    大面油田はこれらの油田の刺激を受けて活動を開始した。
  4. 明治二十四年 北州会社(奥ヶ谷入)
  5. 同二十六年 北潟の人山本多蔵他数名
  6. 同二十八年 蔵王石油会社が綱掘方式(索縄式機械掘)で一四〇間掘ったが失敗
  7. 明治三十三年 大面の人岡村嘉一郎他数人の有志が上総掘で一四三間掘削、地表四間で水層、七九間で四尺の油層砂があり日産一斗の採油があったが水止め不完全のため廃坑

小規模操業で経営が苦しく、採油もできず、従業している鉱夫の中には借金のため夜逃げをする者まででて、村民の間では幼児まで鉱夫を侮蔑する傾向さえでたという。大面村誌に挙げてある油田開発会には次のものがある。

  • 木の芽谷石油組合(発起人:佐藤喜源治・大竹久四郎)
  • 北潟二の坂石油組合(創立人:岩崎幸四郎・片野吉太郎・山口角太郎)
  • 北越石油組合(創立人:山口角太郎・小林熊吉・長島吉松)
  • 大北川石油組合(創立委員:木原常蔵・井上戸久治・佐藤与四助・平井文治郎)
  • 大平石油組合(創立人:宮沢信平・馬場桂松・金井市左ヱ門)

株式会社として

  • 北国石油株式会社(井上戸久治・多田政治・片野吉太郎)
  • 大手鉱業株式会社
  • 北潟扶桑石油株式会社(創立委員:大滝長次郎・岩崎幸四郎・岡島吉松)
  • 南蒲宝田石油株式会社
  • 粕谷石油株式会社(創立委員:関隆三・渡辺重三)

などがあった。

通称「カンサ掘り」というのは「上総掘り」のことで竹筒で坑をあけ、釣べで汲みあげるという原始的な方法であった。第2図は最も初歩の採油方法で人間が井戸掘りをして自ら中へ入るのである。

(第2図)

明治四十年、日本石油会社がインターナショナル石油会社を買収してこの地域の鉱区を手中に収めてから本格的の採掘をはじめた。他の鉱区に比べて規模は小さいが記録に残る採取があった。

(ロ式四号井の大噴油)

口絵写真

大正三年(1914)二月、同社がロータリー式掘削(R式)を開始して、一号井を諏訪畑に二〜五号井を奥ヶ谷入口に掘削。二号井が深度四七五間で噴油、引継いて大正六年三月四号井が大噴油して日産3,000石歴史的の好成績を挙げ、ここに大面油田の基礎が確立したのである。

周囲の山々に油が飛沫をあげてふりかかる物凄さ―大壮観、万歳の声は北潟鉱場にこだました。貯蔵タンクの建設が間に合わず谷間をふさいで溜池としたが忽ち満杯となって北潟川を流下して田が油で履われ、学校の児童たちが桶に汲みあげて逆に会社へ売りにいったという逸話もある。東京をはじめ各地から新聞社・文士が来村、大々的に報道され、記録映画(当時は活動写真といった)に撮影され村で公開された。口絵写真は当時の記念である。この四号井は以来衰えつつも昭和十年頃まで約二十年採油が続けられて最高の記録を出した。尤も大面油田の採油量はどの油も細く長く続くという特長をもっていた。

油田は初め地形の良い北潟付近から開発が始まり、次第に北方の山地(現吉野屋地内)に伸びていった。標高は僅か200m程度ではあるが、谷の刻みこみが急で地形としては可成り劣悪のところである。こうした地帯では掘削作業に苦労を伴ない、当時は木製の檜や鉄管を一本づつ担いで掘削現場に運び上げたと伝えられている。今も尾根の高所に土地を造成し坑井を掘削した油田跡が残っており往年が偲ばれる。

大面油田の産油区域は北潟・大面から矢田・吉野屋を経て三条市長嶺・吉田・如法寺に至る南北6km・巾400mに亘り、鉱区そのものは小さかったがロ式四号井のように、当町日本的記録をもつ屈指の巨井を有していた。当時の採油技術では深度1,100m前後で油層は950m〜1,100m、推谷層下部及び寺泊層の上部に当り、油層名はその中にA・B・Cの三層があり、最も多い採油をみたのはB層であった。

(ガスの噴出日本一)
昭和四年(1929)四月一日本成寺口式一号井が深度1496.7mでガスの大噴出があった。日産3,400万立方フィート、圧力1,400ポンド、当時台湾の錦水油田を超える実に驚異的のものであった。他の坑井からも続いて噴出。会社では圧搾法で揮発油とし、処理後のガスは鉱場内の汽罐、ガス発動機、暖房用、会社々宅用燃料としたが全使用量は20万立方フィートで充分であった。新潟・長岡・三条・加茂・見附の都市ガス会社へ供給、鉱区から6吋(インチ)・4吋パイプを使用、大面・新潟間は53,600mのパイプ延長であった。

(オイルラッシュ)
昭和五年前後は大面油田史上最高の黄金時代であった。昭和十一年現在で林立する櫓の数は108、うち一坑は綱掘、約300人の従業員が昼夜交替で作業を続けた。
高橋白鬼の作詩による大面油田讃歌がある。

  • 燃える水とは昔のことよ、お国自慢の油壺
  • 高い櫓に夜が夜が明ける行こぜ北潟油見に
  • 月の北潟曇ろうと照ろうと思い捨てずに忘れずに

ゴールドラッシュならぬオイルラッシュ、―櫓を讃え、油をあがめると共に、ロマンチックの花も咲いたことであろう。山で働く人々の休養で、矢田・吉野屋の湯小屋の繁昌、茶屋料亭が栄える。山口・大沢・佐藤・渋川組など下請業者の繁昌。当時大面村財政は歳入約4万円であった。鉱山税約4,000円の収入となったが、油田の衰亡を考える時、この税収は貯えて置かなければならないという自重論が村議会内で説かれたのも昔の語り草である。

技術員、鉱夫・事務職員など会社の発展に応じて続々入村、社宅・独身寮が幾棟も建てられ、北潟の谷あいに近代文化の息吹きがふきこまれた。通称帝石部落と呼ぶ石油部落も一つの文化の芽となった。

油田の衰退

昭和五年大面油田の年産原油17,096キロリットルを最高とし、ガス量は昭和十一年1,843万立方mをピークとした。昭和七年のロ式九五号井は画期的な深度2,467mを掘削したが、第二次大戦の波が次第に近づいて来るのに比例して大面油田も衰退期に向った。一つには南方ボルネオ方面への進出で従業員・資材の転送が始められた。昭和十七年戦争のため国策会社として帝国石油株式会社(俗称帝石)の創立によって大面油田も同社に移された。然し実際には人と物の不足から半身不髄の病人のようであった。

戦争による人の犠牲、物の破壊と不足など昔の盛況にかえることができないまま終戦。その後昭和三十一年帝石会社は、本油田を赤間栄吉に売却、同氏によって採油事業は継続された。事業は進転しないまま帝石が見附油田に成功した資料によって探油をしたが成功しないまま閉山となった。

因みに大面油田の地層断面図については序章「栄村の地理」に記載されているので省略するが、前記大面油田四号井について地層断面図は前図のとおりである。小栗山・見附の地層が併示してある。今は亡き大面油田であり、地質、油層等についての説明は省略する。

山口角太郎翁の碑

北潟部落の奥、道の右側に山口角太郎翁の報徳碑がある。山口角太郎は北潟の人、通称山角と呼ばれた。明治時代の中期、同志片野吉太郎等と北潟二の坂石油組合、或は北越石油組合を創立して石油の採掘事業に当ったが、資本・技術などの関係で失敗解散した。その後日本石油株式会社が本格的に削井に着手したが、山口角太郎はその採掘経験を生かして積極的に協力し、油田の発展に貢献した一人である。採油事業の繁栄に伴なって会社専属の従業員のほかに多くの人夫を必要とした。山角は佐藤粂吉・渋川善三郎等と同じく会社の下請をして多くの人夫を供出した。その労資一体の協力が会社のためにも、従業員のためにも幸福になるという信念のもとに、労働組合の結成を提案し賛成を得て成立をみて、労資の福祉安寧は美事に結実した。

大正十五年八月、金子常吉等十名が発起人となって山角の徳に報いるため資金を醵出して報徳碑を建立した。

撰文は大面の先人松外片野幸次郎、書は同じく沂水諸橋臻である。今、碑前に佇む時、大面油田の盛時を想い、角太郎翁の遺徳を偲ぶことができる。

碑面は「山口角太郎君報徳碑」、その碑陰の記は次のとおりである。

碑陰記
山口角太郎君は大面村北潟の人。地は石脳油を産するを以て鑿井を試みる者すくなからず、慨して皆挫折す。
君も亦その一人也。大正二年日本石油株式会社、油井を鑿がたんと欲するや、君は斡旋尽力す。五年六月と翌年三月と二井噴油、奔騰天に沖す。一時日産六千余斛(石)。君は奮起、日に会社の事業を助け、兼ねて役丁を給す。労資を得るに此時を失する可からず。役丁の為に労動(働)組合を設く。濫費を戒め儲蓄を計る。利潤極めて多く、生計日に豊かにして人々安堵相楽しみ以て業に従う。皆日組合今日有るは君に負うところ多し。ともに碑を建てんことを欲し以て其の徳に報い、不朽に伝えんと欲し、余をして碑陰を記せしむ。因て梗概を掲げて云う。
大正十五年八月
片野幸次郎撰也 諸橋臻書并

発企人
金子常吉
片野寅吉
深野勤
深野虎次
金子新平
久保田甚一郎
佐藤亀作
金子粂蔵
佐藤栄松
鈴木弥三郎
石匠 小畑熊蔵

第二節 ある鉱夫の生活

帝国石油株式会社(略して帝石)に勤務し、今、悠々自適の生活をしているM老人の追憶談である。大面油田華かな頃の陰の一駒である。

M氏の勤務

M氏は七十三才(昭和五六)。昭和七年から三十年まで帝石油田に勤務し、当時の作業状態や日常の生活について、太平洋戦争を境に戦前・戦後に分け、その戦前の生活の一断面を述べる。

その第一は、一ヶ月に勤務を要しない日は二日間(一日と十五日)のみで、日曜日・祭日であっても出勤しなければならないことが労務規則にうたわれていた。
さて、当時の労働時間は次の表のとおりである。

交替番名 労働時間 備考
普通番 午前7時〜午後5時 日給者のみ
暁番 午後11時〜午前11時 正社員
宵番 午前11時〜午後11時 正社員

   
休憩時間は普通番の人達は中食休み一時間・暁・宵番の場合では十二時間の勤務の中で適当に休み、時間を見つけて休憩し、弁当も二食を用意しているので同僚と互いに連係を保ちながらの食事であったらしい。M氏の職場は採油(くみ取り)が専門であり、作業の面で苦しかった思い出は毎年のことながら、冬季間(一〜三月上旬)だったらしい。自分の担当井戸から井戸に行く坑道は雪で埋もれ、思うように歩けず、二時間前に歩いた箇所を踏み違えれば胸まで埋まる、再び這い上がる、また埋まるのくり返し、その上、気持だけはあせる。あせればあせる程また埋まるの連続だった。

その第二は、油の上がりが思うように進まない時である。つまりポンプの入れ替え作業である。これは、夏冬とわず入れ替え作業は、三時間〜四時間を要すのである。特に真夜中の発見で急遽この作業に当らねばならない場合は燈火も制限されている関係上、仕事の流れや分担別の再確認を一つ一つ終了した時点のチェックをおこたったときの失敗、また最初からやりなおしの時である。と話してくれるM氏の顔から、自然とのたたかい、作業工程とのたたかいを経験し、苦しい労働の中に自分を見つめ、一人での生活は出来ないことを悟ったとしみじみ懐古されていた。作業は何といってもチームワークによって能率が上がる。多少の感情的な問題がおこっても我慢することなど、自分は勤める前より人間性の進歩したこと自ら認めているとのこと、事実会話の中で苦労してきたあとが穏やかな人柄と、ぽっん、ぽっんと話されている中に親近感がうかがわれた。

M氏の生活

田畑の耕作反別が少なく、帝石に勤務する以前は作男として雇われ、契約年限が無事終って家庭にもどっても専業農家として自営することも出来ない状態であった。したがって家庭経済を支えるために、日雇人夫として夫婦で働きに出る以外はなかった。しかしそうかといって毎日自分にのみ仕事を与えてくれる人もなく、季節によっては仕事がない時は心淋しい思いであった。とくに納税(区費)徴収日が近づくと、金銭の工面に苦労した暮しであったらしい。でも念願かなって帝石に採用がきまり、初任給・日給七〇銭、最初のうちなれない仕事と精神的な疲れで、ヘどへどになって帰宅することが多かった。その都度明日は職場を休むなど口走ったこともあったが家族に激励されてしぶしぶ職場に向ったと言う。でも一ヶ月、六ヶ月、一ヶ年と日増すごとに作業工程を覚え、仕事に対する愛着が出て、一年後は臨時工(日給)から正社員に昇格し、一日平均八〇銭の一〇銭アップと賞与(一年一回)給料に準じて十五日〜二十日分で勤務成績で配分される。ようやく生活にもゆとりが出て来たし暁・宵番者には給料の二分の手当てが与えられたりして、若さでもりもり働く、当時、農家の日雇労働者の日当は一日五〇銭であり、その上、M氏の両親や奥さんも農業に従事しており、農業収入と給料を合わせて自分とほぼ同じ耕作面積を所有する農家より楽ではなかったのではないだろうか、更にM氏は語気を強めて、地域社会の習慣として、大晦日には塩鮭を食べるのが普通であったが、子供の時は両親が苦労して買った塩鱒の小さなものをいただいていたし、着る物も普段着は切れた部分は縫ってあり、その上にさらに重ねて縫ってある状態であった。このような暮しの中に、質素倹約の習慣が勤め初めてからも続き、幸い多少の貯金も出来るようになり、歳の瀬も人さまと同じ暮しが出来るようになったし、子どもたちにも大きな塩鮭を食卓にのせ、これを食べれば大きく成長するんだなど暮しに余裕があらわれ、世間での一般的な交際も出来るようになった。また親類からの要請で今月の納税(区費)を工面してくれと頼まれ、協力してあげたこともある。

いずれにしても苦しい生活の中から帝石に勤務してから債券を買ったり、人間的にもゆとりのある生活ができた。山の鉱場で働く一鉱夫のかざらぬ働きとくらしの話である。

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