大面村誌

昭和41年9月1日発行 『大面村誌』より大面油田のページを紹介します。

※栄町は市町村合併により平成17年(2005)5月1日に三条市となったため、三条市の生涯学習課に許可を得て掲載しています。

表記について・・・油井(ゆせい)、火井(かせい)と読みます。単位は米=メートル、竏=キロリットル、呎=フィート、吋=インチです。原文はすべて漢数字表記ですが、西暦や油量などの分かりにくそうな箇所はこちらで英数字表記としました。文字起こしをしているので誤字等確認しましたが、誤りがありましたらすみません。
大面村誌 大面油田の記載ページ

第五章 大面油田

大面油田の歴史は古い。大正から昭和の初期にはそのガス量において日本有数のものであった。然し時代は去って今は全く衰えた。ここに特に章を起こしてその興亡の跡を辿ってみよう。

一 越後の油田

越の油は古い。日本書紀に「天智天皇の七年、越の国から燃ゆる土、燃ゆる水を献ず」とあり、一二九〇年前から越後の石油は正史に出ておる。以来長い年月に亘って「燃える水」は臭水(くそうず)の名で各地で利用した。

産地は刈羽・三島郡の西山油帯、北蒲原郡黒川村、新津では柄目木を中心に、又頸城地方・小千谷附近と各地に発見された。長岡市浦瀬中心の東山油田も名高かった。

正安二年(一三〇〇年)北蒲原郡黒川村では運上金(税金)を納めて採油したという。六六〇年前、鎌倉時代の昔である。黒川の地名も油に関係している。慶長十八年(三五〇年前)新発田藩士 真柄仁兵衛は新津で油を発見、灯油に精製して販売したのが世界のはじめと云われている。採取法は手掘りでマツ・ナラで坑口四尺四方の枠組みをして湧き水は井戸を掘って外へ汲み出したという。

文政十一年(一三七年前)江戸の中川儀右衛門が越後に遊び科学的精製で高田藩主榊原政岺に上げたと伝えられ嘉永年間刈羽郡妙法寺村の西村某が西蒲原郡吉田の蘭法医の指導で火酒製造にならい、ランビキ法で新境地を開拓し、半田村で阿部新左衛門と謀り製油所をつくったのが、資料明らかな我が国製油のはじめであるといわれている。

伝説 燃ゆる水

空海が、越路へ錫杖をならしたころは、もう、秋風がそよそよとふきそめるころであつた。
ようやく荒れがちな海をながめると、大唐国へ難航の昔が偲ばれてならなかった。「指をおるともう二十年ちかい昔になつた。わしが日本へ帰えるときいて、―帰程三万里、後会、まことに悠なるかな―と、かなしい声でうたつてくれた朱進士はどうしたであろう。―一生一別、ふたたび見がたしと、わしが一詩を賦しておくつた青籠寺の義僧阿闍梨(あじゃり)はどうしていられる。年月は流れる、はかないのは人の一生だ。わしが化導(けどう)の前途はながい。高野の禅院をうち捨ててはおけぬ。皇家の御ための御修法(みずほう)もなおざりにできない。平安京(みやこ)への旅をいそがずばならない」
草生津(くそうず)のあたり、冬の足のはやい北の国だけに陰酷な雲が一面の空をこめて、たえまなく雨が降った。「時雨(しぐれ)の風情もない。さても執念の深い雲だ」空を仰ぐと、つぶやきながらぬれてそぼつ法衣の裾をしぼって草の家(や)の軒にたつた。たてつけのわるい雨戸をガタヒシとあけて顔だけだした老婆があった。
「吹きふる中を化導にあるかるる旅の御僧であるらしい。この雨ではお困りであろうに、あばらやながらお入りください」「まだ暮れるまで間があろう。ゆくてを急ぐ旅の僧の、この雨に困じ(こうじ)まする」「そうあろう。さもござろう。ササお入りくだされ雨のあがる迄に法衣のしづくを干しましようぞ」
招(しよう)じられて空海が草の家の中へ入ると、これは又住めば住まるるほどのいぶせき小屋だ。ほだをたいてぬれた衣をかわしてくれる老婆ひとりの住まいであるらしい。「心の清い人であるらしい」空海はまめまめしくわがためにたち働く老婆の後姿を、数珠をもんで拝んでから「そなた一人のおすまいかの」「おききくだされ、―数多い息子たちは疾病の神にとりつかれてはかない生命(いのち)をとじました。身代わりに死んでやりたいほどに思う老の身で生きている苦しみは、この貧しさでせつかくの御僧に供養するものがござらぬ。あばらやながら一夜の宿をさしあげたいが、それもかなわぬことは、夜の灯油(ともし)さえたくわえがござらぬ。―この吹き降る中に御僧をさらすことの本意ない心をお察しくだされ」
晴れやらぬ空をうらめしながめる老婆をみると、空海の方がたまらぬ隣れを思わずにはおれなかつた。
「アツ、仏の福田(でん)」おもわずさけびをあげたのは空海が、なにげなく背戸の外の草に埋れた古井戸をのぞいた折であつた。
「なげくまい、なげくまい。そなたの清い心に、仏がたえぬ福田をおあたえくださる」そういいながら、その古井戸から水を汲みあげ、キラキラとうく玉のよう滴りを、布ごしにしてありふれた壷へおとすのであつた。ほころびそめる法衣の糸を指先にひねつて榾火(ほたび)をうつすと壷へおとした。
燃える燃える。「水から火がでる。」
老婆はおどろきのまま合掌した。空海はにこやかに笑って「夜の灯油に事は欠かぬぞ」、といいすてたなり旅をつづけた。
これが石油のおこりで、草生津(もとは臭水)の「燃ゆる水」の最初である。
(釈飄斉著 弘法大師より)

二 大面油田のはじまり

文政年間(約一四〇年前)北潟の島影新右衛門が諏訪畑を開墾した際、原油が滲みでているのを発見し、これを縄にひたして採り灯火用にしたと伝えられているが、佐藤彌五郎文書「寛永五年大面庄北潟村御検地帳」には油田(あぶらだ)・油免(あぶらめん)など油に関係の地名のあるところをみると、既に二五〇年以前に発見されていたことがわかる。同じ地続きの本成寺村如法寺にも古くからガスが出ており、越後七不思議の一にあげられ、有名な橘南谿(たちばな なんけい)の「東遊記」にも詳しく記してあり、明治十一年九月、明治天皇の北越御巡幸の際も天覧に供されている。橘南谿が親しく視察したのは天明六年で、その文中に「正保二酉年はじめてこの家の地中から火が燃えでて一四二年休みなしに続いている」とある。正保二年は徳川家光の治世で前記北潟検地帳記載の年から稍、後年であり、石油あるいはガスがこの地域一帯に関係していたのである。

三 如法寺の火井

「俚謡集(文部省)」の臼挽唄に越後の七不思議が唄われている。
「越後七区の七つの不思議、一に鳥屋野の倒さの竹よ、二には小島の八房の梅よ、三に保田の三度なる栗よ、四には田上のつなぎの榧(カヤ)よ、五には柄目木くそうずの油、六に三条入り如法寺の、百姓万兵衛炉の隅見れば、竹の筒から火の出る不思議、七つ角田岩山沖眺むれば、沖のお題目海さえ浮で、これが越後の七不思議、これが越後の七不思議。」同じく出雲崎おけさ、後囃子唄の中にも「六つなるかや三条の東、東に在て如法寺村の、百姓善三郎の居炉裡の隅に、青い火が出るこいつも不思議….」とある。
天然ガスはカザクソーズ(風臭水)ともいい、火井・風火・燃風火・自然火等ともいわれ、今からみれば何でもないことであるが、昔は不思議中の不思議とされたのである。色も形もなく竹の筒で簡単に導かれ、しかも点滅自在であるから驚異の眼でみられたのであろう。

橘南谿(たちばな なんけい)の東遊記には次のようにある。
「越後国弥彦の駅より南に入る事五里に三条といふ所あり。甚だ繁華の地なり。此三条の南一里に如法寺村といふ所あり。此村に自然と地中より火燃え出る家二軒あり。百姓庄右衛門と云ふ者の家に出る火もつとも大なり。三尺四方ほどの囲炉裡の西の角に古き挽臼を据えたり。其の挽臼の穴に箒の柄程の竹を一尺余りに切りてさし入有り、其竹の口へ常の火をともして触るれば、忽ち竹の中より火出で、右の竹の先にてともる。又強く吹消せば即きゆるなり。其火常のともし火の如く、長さ一尺ばかり太さは筒程にて、例えば二三百目の蠟燭をともせる如く光明甚強く、此火有る故に庄右衛門家には昔より油火は不用、家内隅々までも昼の如く、挽臼にさし込置たる竹を続けば其火何方迄も行きともるなり。
されど水の如く前後左右へ分れては不出、唯一方のみなり。外へ気の洩れざるやうに竹を続き導けば遠く迄も及ぶなり。陰火なるべしやと疑ひて懐中にありし印矩を取出し件の火に近づけしに、常の火の如し印矩少し焼け焦げたり。帰京の日の物語り草にやけ残りし印矩持帰れり。
其者はいつの頃より出そめしと尋ぬるに、正保二年三月此の家にてフイゴを吹きしことあり、其時ふと地中より出でしこの方今天明六丙午の年に至る百四十二年の間、一日も絶る事なく出る也。初めて出でし時は挽臼をふせしかば、量を取らばもしや絶る時もあるべしやと気使ひて、其家普請などある時といへども、此挽臼を動かすことなしと云へり。誠に数代の間此家のみ油火を用いることなく、又少しの物をば煮或は焼くにも事足りて、大なる宝といふべし。又此如法寺村より十里あまり東北に、からめき村といふあり。此所にも上るといふ。余は如法寺村にて委しく見たる故、其からめき村へは行かず。かかる事唐土にもありて、あの方にては火井と名づけると云へり。日本の地にては他国には無きことなり。」

金塚友之丞氏の研究「蒲原低湿地帯のあれこれ」(高志路一六三号)に拠れば「和漢三才図」「北越雪譜」等では寛文年間、「東遊記」「譜国採薬記」等では正保年間となっているが、真の発見はもっと古いだろうといい、火井の家名も前記俚謡では万兵衛・善三郎、一般記録では「庄右衛門」旧鹿年代記では三四郎と称している。三四郎は旧名主大桃氏で、東遊記に拠り領主満口侯への書上げから誤ったものらしく、同家と両隣とは右来火井が成功しなかったとも云う。庄右衛門(荘右衛門)は今の金子氏のことで、部落最古と伝える火井があり、今も依然として利用している。

如法寺部落二六戸中七戸は火井を有し、何れも地下水面に達しない深さのカラ井戸で、地形にもよるが二間〜三間の浅井戸で、若し水井戸となればガスの噴出が止まるため、雨水を井戸内へ入れぬよう二間井戸で地表面近くに板をはめその上へ粘土を載せて水を四五寸深さに張り粘土の亀裂とガスの発散を防ぐ。三間井戸では地表下九尺の処に同様の装置を施し、井戸の口には雨除けをする。ガスは三紀の砂利層との境から出、そのすぐ外側は沖積に覆われている。

井戸にもよるがダシが吹いて蒸し暑く、雨の近いような日には音をたてて多く出量、晴れあがった涼しい朝は噴出量が減る・・と書いてある。見学する時は十二灯、瓢箪の外に三っ宝珠などの燃具を使って実験される。

四 大面油田の活動

東山丘陵―越後山脈の前山をなし、新津の背後から魚沼川に至り、第三紀層が発達して、大面油田・東山油田・新津油田を含み信濃川を距てて西山油帯に対応している。石油興業として活動をはじめたのは明治十年頃からである。当時の文献はないが、時あたかも、明治初年米人技師ライヒマンが越後の油脈調査に来て、その指導で明治六年長岡の石坂周造等が東山の油脈を見こみ、浦瀬山で手掘り方法で事業を始めたのと前後している。

明治十七年浦瀬山中心に資本金三万円の北越石油会社ができ、やがて明治二十一年日本石油株式会社を設立し、明治二十三年出雲崎尼瀬油田の背斜構造に米国式の綱掘法による機械採油に成功(第一号井)して以来俄然石油事業は活発になった。―長岡が維新の戦禍から復興し近代工業都市に繁栄する基礎となる―当時の大面油田は数箇の小資本の会社や組合による極めて小規模の操業が営まれたが、経営は苦しく、鉱夫の中には借金を返済することが出来ずに夜逃げする者が出る始末で、村民の間では幼児にいたるまで鉱夫を侮蔑する傾向が強かったといわれている。北潟佐藤彌五郎文書によると、明治二九年当時、油田開発を目的として組織された組合が多くある。

  • 木の芽谷石油組合(発企人:佐藤喜源治・大竹久四郎)
  • 北潟二の坂石油組合(創立人:岩崎幸四郎・片野吉太郎・山口角太郎)
  • 北越石油組合(創立人:山口角太郎・小林熊吉・岡島吉松)
  • 大北州石油組合(創立委員:木原常蔵・井上戸久治・佐藤与四郎・平井文次郎)
  • 大平石油組合(創立人:宮沢信平・馬場桂松・金井市左衛門)

株式会社として

  • 北国石油株式会社(井上戸久治・多田政治・牛野吉太郎)
  • 大平鉱業株式会社
  • 北海扶桑石油株式会社(創立委員:大滝長次郎・岩崎幸四郎・黒島吉松)
  • 南蒲宝田石油株式会社
  • 柏谷石油株式会社(創立委員:関隆三・渡辺重三)

などがあった。
木の芽谷石油組合の予約証の透絵に描かれた当時の石油櫓の傍に、煙突から黒煙を吐く蒸気機関があるが、近代的な採油機械の採用される以前の採油のようすをうかがうことができる。

古老の話によると「カンサ掘り」といって竹筒で坑をあけ、ツルべで汲みあげるという原始的な方法であったというが詳しい汲みとり方法は明らかでない。当時浦瀬山でやった手掘法が大面でも用いられたのである。
その方法によると

  1. 井戸の位置を定めて「井戸小屋」を建てる(丸木建円錐形)
  2. 小屋の一方を平地と四五度の傾斜とする。
  3. 油紙をつかって明り窓をつくる。
  4. 内側の梁に滑車(かっしゃ)を藁縄でしばりつける。
  5. その車の直下に「井戸心(しん)」として1m20〜1m50cm位の坑を掘る。
  6. 鉱夫は、かきこみ(三本鍬の小形のもの)・つるはし・ふいご・わく組・さん木(防禦工事用)・胴巻・ござ・尻あてござ・着ござ(帯綱)・腰綱・ブリキ製の笠(上がとがっている)を用いる。
  7. 通風装置として坑口に「たたら」を設ける。
  8. 坑内作業は一人に限られ、二時間毎に交替する。
  9. 掘りとった土はもっこにもって滑車で坑外に出す。これを坑外では三人がかりで引揚げる。
  10. 坑内はガスの危険があるので灯火は厳禁である。
  11. 「打上げ」という防水工事をする。つるべ(げんば)で汲む又は「吸出し」を行なう。
  12. 本井戸のほかに孫井戸をつくる。
  13. 深度は20〜30間が普通で、100間位のものもある。
  14. 「げんば」で原油を吸みあげる。

このようにして幾本、幾十本の井戸が掘られたのであるが、当時の原油が長岡か柏崎か、何処へ運ばれたか明らかでない。当時の井戸の遺跡が今も北潟山の雑木茂る中にあって興亡の名残を留めている。

この手掘式から進んで上総掘の方式が採用された。明治二六年頃といわれるが、大面油田の記録はない。その方法は次のとおりである。

  1. 「やぐら」を建て、足場を組み、その中に「ひね車」直径二間三尺の大車輪を置き、足場の上部には孟宗竹数本を束ねてその根本を固定させ、末端が坑口に臨むようにとりつける。(弓竹である。)
  2. 堀鉄管で岩石を掘さくするのみのような刃と弁が取付けてある。
  3. 「ヒネ」は皮つきの竹を裂き、巾一寸位に削ったものを鉄の輪及び楔(くさび)にて長くつぎ合せたもので掘鉄管を坑内に吊下げる。
  4. 坑の大小、深浅により三人〜八人の男女が力を合わせて急に綱を「ヒネ」に合せて引下げるとそのはずみで掘鉄管の刃が坑底を打つし、力をゆるめれば弓竹のはずみで鉄管がはね上る。これをくりかえして続ける。
  5. 各自が力の限りを出し、拍子をとって調子を揃えなければならず、唄を歌うことが必要である。
  6. この方法は掘進するに長時間を要するけれども、装置が簡単で費用が安くあがり、地質が良好な浅い井戸に便利であった。
  7. 深度は180m〜280m、まれに450mまで掘進することができた。

しかしこれとて現代の機械の10分の1〜20分の1の能力しかない旧式の方法である。

前記のように米国式綱掘法で尼瀬海岸油田第一号井に成功して以来、越後油田全域に亘って漸次隆盛となり、明治末期から大正初期には特に新津油田を中心に最高潮に達したのである。大面油田もその影響を受けて、大正五年、日本石油株式会社によって近代技術をとり入れ、大規模な開発が行われるようになった。いわば日石の進出によってこれまでの弱小企業による新しい時代を迎えたのである。

当時第一陣として浦瀬油田から来村した鉱夫には現北潟の渡辺洋服店の先代渡辺伝吉、見附市で長寿を保っている中川広吉などがいる。中川老は当時、なお採油に用いられていた蒸気機関手を勤めたという。技師としては武田某、渡辺某などがあり、その外、他の鉱区でその技術を発掘したいわばベテラン達が続々来村したのである。家族連れの社宅、独身寮など幾棟も建てられ、農村大面村の北潟の奥地に近代文化のいぶきが吹きこまれたのである。通称日石部落、石油部落がそれである。

日石会社の手による第一号井は油を見たのみで終わり、第二号井は大噴油を得て成功(大正五年五月)。第三号井は失敗。続くロ式第四号井は深度890mで二号井を上まわる大噴出をみて、大面油田の名を一躍高め大面油田史に金字塔をうちたてた。大正六年三月、日産3,000石、周囲の山山に油がかかる物凄さ、壮観。万歳の声は北潟の山山にこだました。タンクの建設が間に合わず、谷間に堤を築いて貯えたが、忽ち満杯ついに北潟川を流れるにまかせ、北潟、大面から帯織方面にまで川や田が一面に石油で覆われ、学校の子供たちが桶に汲みあげて逆に会社へ売りにいったという喜劇も演ぜられ、会社は被害地主へ補償をしなければならぬという嬉しい悲鳴もあった。この四号井は爾来衰えつつも昭和十年頃迄採油を続けて最高の記録をだしたのである。尤も大面油田の採油量はどの井戸も「細く長く」式で、他鉱区のように「太く短く」式でない特長をもっていた。

大面村誌の口絵写真(ロ式第4号井)

産油区域は北潟・大面から矢田・吉野屋を経て本成寺村長嶺・吉田・如法寺に至る南北六粁(6km)、巾四〇〇米(400m)に亘り、鉱区は小さかったが前記ロ式四号井のように当時の日本では屈指の巨井を有していた。ロ式とは掘鑿方法ロータリー式のことで深度1,100m前後で油層は950m〜1.100mの間で、椎谷層下部及び寺泊層の上部に当り油層名はその中にABCの三層があり、最も多量の採油をみたのはB層であった。

大面油田の歴史で日本一がもう一つあった。昭和四年四月一日本成寺ロ式一号井が深度1,496m70でガスの大噴出である。日産3,400万立方呎(フィート)、圧力1,400ポンド、実に驚畏的なもので当時の台湾錦水油田に匹敵していた。勿論他の井戸からもガスの噴出があり、会社では圧搾法で揮発油を採収、処理後のガスは鉱場内の汽罐(ボイラー)、ガス発動機、暖房用、社宅用燃料に使ったが全使用量20万立方呎(フィート)で充分であった。このロ式一号井の大量の噴出で、六吋パイプで大面ガソリンプラントに送り、ガソリンに精製したがその後の排ガスは各地へ供給した。新潟へは六吋パイプで、長岡へは四吋パイプを用い、三条・加茂・見附へも送った。大面新潟間はパイプ延長実に5万3,600mであった。

昭和五年頃は大面油田の黄金時代であった。林立する櫓の数は六四、掘鑿井五本、準備抗一本、約三〇〇人の従業員が昼夜交替で作業を続けた。

  • 燃える水とは昔のことよ お国自慢の油壺
  • 燃える水なら大面においで他所に見られぬ井がたつ
  • 高い櫓に夜が夜が明ける 行こぜ北潟油見に

山で働く人人の休養で矢田・吉野屋の湯小屋が繁昌。茶屋料亭が栄える。下請業者が栄える。当時大面村財政は歳入約四万円であったが、鉱山税がその一割約四千円村の収入となった。油田の衰亡を考える時、この税収を貯えておかなければならぬという自重論が村議会内で説かれたのも昔の語り草である。

  • 月の北潟曇ろうと照ろうと思い捨てずに忘れずに

大面油田の黄金時代、楢を鑽え、油をあがめると共に、ロマンチックの花も数々咲いたことであろう・・・
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昭和五年度産出額
■原油 181.177ヘクトリットル(869.650円)
■ガス 986.700立方米(25.654円)
■本成寺ガス 15,814,368立方米(328.646円)
原油計 869,650円
ガス計 354,300円
組計 1,223,950円

一日平均・原油43キロリットル(230石ドラム罐215本)
揮発油 7キロリットル(約40石)
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鉱場内三ヶ所に二四呎(フィート)の「ナショナルポンピング」「パワープラント」を設置し周辺の坑井数坑を索引汲油したギーギーという音も懐しい。こうした産油・揮発油は鉱場から帯織駅貯油槽まで二吋(インチ)と三吋の敷設パイプで送り、油槽車で柏崎・沼垂の製油所に送った。

帯織から鉱場へ運び込まれる資材は駅から特設した軽便軌道(駅から東方田圃を横断して大面に出て鹿島谷を入り北潟鉱場に通じた―大沢恭平経営)で運んだ。

この時代を越後全域の各油田からみると、新津油田が衰退期に入り、代って刈羽油田特に高町油田を中心とする西山油帯の最盛期で1,500本の櫓が立ち、日石は柏崎に製油所を設け、理化学研究所(理研)は柏崎に工場をつくるなど黄金時代であった。

大面油田も前記のとおり之に呼応したかのようで、昭和五年には最大産油量を示し、産額は17,096竏(キロリットル)を達した。昭和一七年国策に沿って帝国石油株式会社に合併したが、太平洋戦争に直面し、南方ボルネオ方面の油田に全力を入れ大面油田の資材力は徴発され、鉱場は殆ど半身不随の形になった。こうして産油は次第に減退し、昭和二八年六月遂に不採算鉱場となって閉鎖され、大面石油株式会社(社長赤間栄吉)に譲渡し、同社により老衰油田の採油を続けた。

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開発以来昭和三一年一二月まで総採収量
■原油 223,783坪キロリットル
■ガス 8,158,793立方米
■揮発油 22.316キロリットル
 原油から 10.724キロ
 ガスから 11.592キロ
昭和三一年一二月現在
■掘さく坑井 125坑
■坑井数 125坑
■採油井数 37坑
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大面油田は甚だしくせまく高く急竣な山々にまたがって発達している油田で、しかも坑井は1,000m以上の深さをもち、採油の施設も軽量でないためにこの地勢との斗いが大面油田の作業の最も大きな問題の一つである。

なお油田の採油上の問題としては、水とその水に因るスケールの付着及び腐蝕の問題である。油層は完全に浸水しているために現在原油の十倍以を同時に汲みあげているが、この水の中に含まれる石灰分がスケールとなって坑内パイプや採油ポンプに付着して採油能率の低下とポンプの故障の原因となっている。採油ポンプは又水による腐蝕によって甚だしく損耗が増加している。スケールの除去については、近年坑内を酸素液によって処理する作業が始められて優秀な成績を示しており、採油ポンプについても着々と研究が進められているが、これはすべて今後の研究に負うところが多い。

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大面油田産出物の成功
一、原油

  • 比重 0.898
  • 色 黒褐色不透明
  • 揮発油分(0度〜215度)15パーセント
  • 灯油分(45度〜225度)25パーセント
  • 軽油分(275度〜300度)7パーセント
  • 重油分(300度〜360度)12パーセント
  • 残油(平均134度)41パーセント

二、ガス

  • メタン 56.94パーセント
  • エタン 9.24パーセント
  • その他 33.82パーセント

三、揮発油

  • 低圧採収 比重750 ボーメー57.1
  • 高圧採収 比重718 ボーメー65.6
  • AP採収 比重760 ボーメー54.7
  • 低高混合 比重740 ボーメー59.7

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五 将来への期待

輝しい歴史をもつ大面油田も現在老衰期に入ったけれども、大面背斜構造に覆いかぶさっている小栗山背斜構造は既に試掘され、緑色凝灰岩層(グリーン・タフ小栗山層)中に石油の存在も確認され、将来再び深層探鉱によって新油田の発見も期待される処である。

国際的な大油田として名声をあげて来た見附油田・長岡油田がよい例である。

昭和二八年の「大面地震探鉱」以来繰り返して物理探鉱が計画され、三〇年の「見附地震探鉱」三一年西独ブラグラ社から技術を導入した「押切地震探鉱」さらに三二年の「見附南方地震探鉱」が実施され、これらの一連の調査によって北は白銀から南は同市四ツ屋に至る延長四・五キロにわたる長大な背斜構造が確認された。そして石油資源開発会社の手で三一年四月「見付SKI号井」が開坑され、三二年一月葛巻地内の三号井で1,187m〜1,214mで日産四万立方米の良好なガスの噴出をみたことに端を発し、続々掘進され、十一号井など1,735mで油層の厚さ90m、日産500竏(キロリットル)ドラム罐2,500本という世界的な井戸の発掘である。地下2,000mに眠る「黄金の水」めざして夜を日についで作業が進められている。構造性ガス量も膨大であり、文字通り日本一の油田である。日本では明治八年以来7,000本の井戸を掘り四五年かかって八万竏(キロリットル)というのが最高というが、見附十一号井はこれを上廻る見とおしである。

構造性ガスは前にも記した昭和四年の大面油田本成寺ロ式一号井(累計五〇〇〇万立方米)に始まったといって差支えないが、更に昭和二九年以来積極的となり、東三条SKI号(月岡鉱区日産三〇万立方米)も埋蔵量一億立方米以上といわれ、見附油田と同じく小栗山層(緑色凝灰岩層)上部に属している。
この地域につらなる大面油田地帯が、深層探鉱と新しい技術によって再び時代の脚光を浴びることに大きな期待をかけるところである。

六 山口角太郎翁の碑

北潟部落の村はずれ、大面油田の事務所を過ぎた道の右側、(原書空欄)の中に山口角太郎の報徳碑がある。角太郎は北潟の出身、明治時代の中期同志片野吉太郎等と北潟二の坂石油組合、或は北越石油組合を創立して石油の採掘に当ったが、事業は成功しないまま解散。その後日本石油株式会社が本格的に鑿井に着手したが、角太郎はその経験を生かして積極的に協力、油田繁栄の礎の一人である。採油事業が発展するに従って会社専属の社員従業員の外に多くの人夫を必要とした。角太郎はかねてその請負をして多くの人夫を供出した。矢田の佐藤条吉、吉野屋の渋川喜三郎等も同じ仕事を兼ねて会社に協力した人たちである。

山口角太郎は労資一体の協力が会社のためにも従業員のためにも幸いになるとの信念をもち、進んで労働組合の結成を提案、その福祉安寧に努めた。大正十五年八月、金子常吉等十名が発企人となって角太郎の徳に報いるため資金を喙出して報德碑を建立した。撰文は大面の松外片野幸次郎、書は詣橋臻である。その功は不朽にたたえられるであろう。今、碑前に佇む時、大面油田の華かであった往時を想い、山口角太郎翁の遺往を偲ぶことが出来る。碑面に「山口角太郎君報徳碑」とあり、裏面に刻まれた漢文の碑陰記をくずして左に載せよう。

碑陰記
山口角太郎君は大面村北潟の人。地は石脳油を産するを以て鑿井を試みる者尠(すくな)からず、概して皆挫折す。君も亦其の一人也。大正二年日本石油株式会社、油井を鑿がたんと欲するや、君は斡旋尽力す。五年六月と翌年三月と二井噴油、奔騰天に沖す。一時日産六千余解(石)。君は奮起、日に会社の事業を助け兼ねて役丁を給す。労資を得るに此時を失する可からず。役丁の為めに労動(働)組合を設く。濫費を戒め儲蓄を計る。利潤極めて多く、生計日に豊かにして人々安堵相楽しみ以て業に従う。皆日組合今日有るは君に負うところ多し。胥(とも)に碑を建てんことを欲し、以て其の徳に報い、不朽に伝えんと欲し、余をして碑陰を記せしむ。因つて梗概を掲げて云う。
大正十五年八月 片野幸次郎撰文 詣橋臻書丹

発企人
金子常吉
片野寅吉
深野勤
深野虎次
金子新平
久保田甚一郎
佐藤亀作
金子刻粂蔵
佐藤栄松
鈴木弥三郎
石匠 小畑熊蔵
(北越石油株式会社 斉藤氏の資料を中心とする)

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以上、古い資料につき写真の質が悪いため、図版の掲載は割愛しました。元の資料は三条市栄庁舎内にある三条市立図書館栄分室にあります。